ベトナムの歴史~ベトナムの植民地化とフランス領インドシナの成立~
更新日:2016年1月20日 / ライター: ベトナム生活・観光情報ナビ編集部
近代ベトナムの歴史はフランスによる植民地化、そしてベトナム戦争ということを知っている方は多いと思います。現代のベトナムまでの流れをフランスによる植民地から詳しく紹介していきます。
欧米諸国のアジアの植民地化
欧米諸国のアジアの植民地化に伴い、19世紀のフランスは海外への進出を加速させていました。
この世紀の間だけでもアルジェリア・ニューカレドニア・カンボジア・ラオスを植民地としています。
そのようなアジア進出の中、清とイギリスの間で1856年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)が発生します。
フランスのナポレオン3世は中国でフランス人宣教師が殺害されたことを名目にイギリス方として参戦します。アロー戦争は英仏側の勝利で終わり、また同時に周辺国への侵攻も開始します。
ベトナムの植民地化
アロー戦争後フランスはベトナムへの侵攻を強めます。
1861年フランス軍はサイゴン(現在のホーチミン市)に上陸、ベトナム南部のコーチシナを攻略します。
翌年にフランスと当時の王朝である阮朝はサイゴン条約を締結し、阮朝はコーチシナ東部3省【ビエンホア、ジャーディン(サイゴン周辺)、ディントゥアン(現在のミトー)、プロコンドール島(現在のコンソン島、コンダオ)】をフランスへと割譲し、またダナンの開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権など阮朝へと認めさせます。
その後フランスはベトナムの阮朝を軍事的圧力によって、1883年の癸未条約と1884年の甲申条約を結び阮朝を保護国化しました。この場合は阮朝の外交などをフランスが代わりに行うこととなり、ほぼ植民地化と同じでした。
フランス領インドシナの成立
これに対してベトナムの宗主国(ある国を配下としている国、つまり阮朝を支配下においている国)である清はこれを認めず清仏戦争が発生します。フランスはこれに勝利し、1885年に天津条約が結ばれベトナムは完全にフランスの保護下に置かれます。
その結果ベトナムはトンキン(Dong Kinh:ベトナム北部)、アンナン(An Nam:ベトナム中部)はフエに宮廷を置く阮朝が、南部のコーチシナはフランスが直接統治をすることとなります。
しかしアンナン、トンキンともに阮朝の支配は名目上だけであり、フランスが実質的な支配を行っていました。その後1887年にベトナムと、1863年のフランスによって保護国化されたカンボジアを中心にフランス領インドシナ連邦が成立します。
後にフランスとタイの間で仏泰戦争が起こりますが、その結果ラオスもフランス領へと併合されます。その後フランスと現在のミャンマーまで進出していたイギリスとの間で軍事衝突の危機が発生しますが、「シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言」によりこれを回避。
またフランス、イギリスの緩衝地帯としてシャム(現在のタイ)は植民地化を免れます。
その後1899年にはフランス領インドシナの領土が最終的な形となります。
フランスへの抵抗
当然ベトナムではフランスへの抵抗が発生します。初期では1885年に阮朝8代皇帝咸宜帝が反乱を起こします。このとき咸宜帝は14歳でした。しかし反乱は失敗し咸宜帝ははるか遠くのアルジェリアに配流されます。
20世紀になるとベトナム人知識層を中心に民族主義運動が発生し始めます。その後日露戦争で日本が勝利すると日本から学ぶことを目的としたドンズー運動(東遊運動)が発生します。ドンズー運動は以下の記事を参考にしてください。
ドンズー運動:日越交流40周年記念ドラマ「パートナー」の題材にもなったファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の物語1900年台初頭に起こったフランスからの独立を目指した活動であるドンズー活動の詳細及びファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の関係を史実を元に解説しています。このドンズー活動は日越交流40周年記念ドラマ「パートナー」の題材にもなりました。
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