ベトナム・ホーチミンで働く日本人~ドンズー日本語学校 伊藤晴彦さん~
更新日:2016年9月20日 (取材日:2016年8月21日) / ライター: JAC Recruitment Vietnam
化学メーカーで8年間エンジニアとして働かれていた伊藤さん。マレーシア出張をきっかけに「海外で日本語教師をしたい!」とエンジニアのお仕事から一転、ベトナムで日本語教師に転職されました。なぜここまで日本語教師になりたかったのか、ベトナムで働く魅力などお話をお伺いすることができました。
日本語教師の道
Q日本ではどのようなお仕事をされていたのですか?
化学メーカーでエンジニアをしていました。化学プラントの電気システム設計・保全、太陽電池の製品開発などをしていました。
Qなぜマレーシアで日本語教師になりたいと思ったのですか?
アジアに貢献したいと思ったからです。マレーシアに訪れるまではどこか東南アジアを下に見ている所がありました。しかし、実際訪れてみると私は日本人である以前にマレーシア人と同じアジア人であると強く感じました。私の勝手なイメージで上から目線であったことに対し申し訳なく感じました。それと同時に今までの罪滅ぼしというわけではありませんが、何か貢献したいと思いました。
特にその思いを強く持ったのが、同じ職場のマレーシア人スタッフが40キロもある田舎の実家へ、会社の制服を着て毎週帰省していたことです。なぜ制服を着て帰るのかと尋ねると、日系企業で働いていることが誇りだと答えました。とても衝撃的でした。給料は私の1/5にも満たない安さなのに、彼は誇りだと言いました。私はそれを聞いたときに、同じ仲間として給料が大きく違うことに違和感を感じ、この人達に何かしてあげなければいけないと思いました。
日本帰国数週間前の夜勤中、休憩室でマレーシア人スタッフが日本語を教えてほしいと言って来ました。快諾したものの、いざ教えるとなると何から教えたら良いのか全くわからず困ってしまったことがあります。これが日本語教師になりたい思ったきっかけとなりました。
Qエンジニアの仕事を辞めてまで日本語教師になりたかったのはなぜですか?
就職したときは、どんなに苦しくてもエンジニアで生きていくものだと思っていましたから、まさか定年退職前に自ら会社を辞めることになるとは考えていませんでした。
転職する前は、太陽電池の開発をしていました。当時の太陽電池業界はこれから脚光を浴びるであろうという時代でしたので、とても忙しい日々でした。新製品開発業務の一つに特許申請があります。特許業界は意外かもしれませんが時間との競争です。どんな業種でも時間は大切ですが、他社に先を許してしまうと、自分たちの研究が全て徒労に終わります。膨大な時間とお金が無駄になると会社の損失にもなりますし、仕事へのモチベーションにも大きく関わります。そのため少しでも早く特許を取り新製品を開発しなければならないので、毎日時間に追われていました。
業務内容そのものには、誇りを持ち充実していましたが、ある日大きなプロジェクトが終わった瞬間、達成感からなのか急に虚脱感に襲われ、全てのことに対して生気がなくなってしまいました。今で言う燃え尽き症候群ってやつなんでしょうけど、これを機に会社を辞め日本語教師になることにしました。上司には、人生を真面目に考えているのかと怒られたり、同期には反対されたりしましたが、それらを振り切り日本語教師養成学校に通いました。
Q日本語学校で就職できるという自信があったのでしょうか?
正直ありました。というのも、養成学校に入る前は日本語教師の数は足りておらず、特に男性教員の需要は高いと聞いていたので、養成学校が終わりさえすれば日本語学校に就職できると思っていました。
しかし、実際は養成学校を卒業しても学歴が短大卒であるため面接すらしてもらえず、就職先はありませんでした。それから4年間は就職先を探しながら大阪北新地にあるラーメン屋で生計を立てていました。
Qなかなか日本語教師になれない中で、日本語教師をあきらめようとは思いませんでしたか?
周りの人たちの反対を押し切って日本語教師になると公言したので、絶対に日本語教師にならないといけないというプライドがありました。ただ、4年間も就職活動をしていると心が折れかけていました。最初は関西圏で探していましたが、面接すらしてくれない状況でした。これで就職できなかったら日本語教師はあきらめようと思い、海外に応募しましたが、本命だったマレーシアがダメ。隣のタイもダメ。海外も日本国内同様に厳しかったです。
もういいやと半分投げやりでベトナムに応募したところ、3ヵ月後に東京で面接すると知らせがありました。この学校が現在勤務しているドンズー日本語学校です。どうせ面接してくれるなら3カ月も待てないので、翌々日のホーチミン行きチケットを購入し、面接のためホーチミンへ来ました。面接はすぐ終わり、同時に採用も決まり2ヶ月後から専任講師として働くことになりました。とても嬉しくて浮かれていましたね。で、帰りのタクシーで50ドルぼられました…(笑)行きは3ドル、帰りは50ドル。どんだけぼんねん、みたいな感じでした。
日本語教師をする上で
Q現在のお仕事について教えてください
講師をしながら、メールチェック、お客様対応などの秘書業務をおこなっています。
Q赴任当時どのような苦労がありましたか?
つまらない授業をしてしまうと露骨に学生は授業に出てこなくなります。そのため赴任当時は45分授業の準備に4~5時間かかりました。不安でなかなか寝れず、毎日深夜の教室で一人模擬授業をしていました。休みも全て授業の準備に費やすため、赴任当時の1年間はほとんど外出したことがありませんでした。
赴任2年目のときに、日本から来た友人にホーチミン市内の観光ガイドを任されましたが、観光名所もおいしい店も全くわからないので、ガイドを頼まれたのにガイドブック片手に観光客に観光案内してもらうという大変恥ずかしい思いをしました。それで、これではいけないなと思い、積極的に外出するようにしました。
町に出るようになると、ベトナム人の慣習や流行が分かるようになり、生徒たちの興味を引く例文等を用意出来るようになりました。今は情報収集もかねて外へ出かけるようにしています。
Q学生の興味を引くためにどのような工夫をされていますか?
リアルタイムなネタを用意することを心がけています。教科書はリアルタイムに変化していくわけではないので、先生が変えていかなければなりません。また生徒の関心を引くために授業内で写真をたくさん導入したりしています。生徒“全員”が知っているネタや写真を使用し、常に学生がどういうことに興味を持っているか、何が流行っているのかチェックしています。
Q前職のキャリアはどのように生かされていますか?
まず、就職直前はラーメン屋にいたので餃子を焼くのが上手いですね(笑)これは冗談として、日本語教師はサービス業と同じですので、接客業を経験していたのは良かったと思います。私たちにとってお客様は学生です。学生がどのような目的で日本語を勉強しているのか知り授業プランを考えます。そして、学生が満足してもらえるような授業を行いゴールまで導かなければなりません。
日本語教師は孤独な面もあり、評価してくれる人がいません。学生が自分の作品となるわけですが、学生のデキが悪いと先生の教え方が悪いと言われます。今回のクラスは自信作と思っても、あのクラスの学生は良くできると言われ、先生が良いと言われることは滅多にありません。自分自身で学生の要望や授業内容を回顧し、周囲の言葉に動揺せず自分の信念を持って改善していく仕事の進め方は研究職と似ているので、太陽電池開発業務での経験が役立っています。
これからの展望
Qこれからの目標はありますか?
これからもベトナムで日本語教師を続け、全体的に学生のレベルを上げたいです。私一人が頑張っても意味はなく、学生の質を上げるためには先生の質を上げることが重要です。これからは、学生だけでなくベトナム人日本語教師のレベルアップに取り組みたいです。
Qベトナムで働きたい人にアドバイスはありますか?
ホーチミン市はご飯がおいしく非常に生活しやすい街です。仕事は経験を積んでいけば本人の心がけ次第でどうにかなります。最初は上手くいかないと思いますが、自分の努力と勉強で解決可能です。また日本食も多く存在しており、ベトナムでの生活が苦しいなと思ったら日本同様の生活が出来るため、いざという時の逃げ道もあるので安心感もあります。
ベトナムで働く上で一番大切なのは元気です。後は、こちらに来てからでも結構ですので、ベトナムの戦争や文化を知った方が良いと思います。良いとか悪いとかではなく、このような歴史があったのだと理解しておいたほうがベトナム人のことがよくわかると思います。
インタビューを終えて
現在も積極的に外に出て、学生に興味を持ってもらう授業をするにはどうすべきかを常に探求されており、学生の成長にやりがいを感じるとお話しする伊藤さんはとても生き生きして素敵な方でした。お忙しい中貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございました。
取材:8月21日高山木実(JAC Recruitment Vietnamインターンシップ生)