美しい街並みのホイアンの歴史と建築を知るとさらにホイアン旅行が楽しめます
古都ホイアンと聞くとどのようなイメージを持っているでしょうか。おそらく多くの人が世界遺産と答えると思います。世界遺産と聞くと、自分たちとは遠い存在のように思いますが、実はホイアンと日本人との間には深い関係があります。
ホイアンの歴史①:国際貿易港までの歩み
ホイアンは16世紀以降、国際貿易港として繁栄していました。なぜならホイアンは中国、日本などアジア諸国やポルトガル、オランダ、フランスなど欧米諸国の仲介地点として、適した場所だったからです。またホイアンはチャンパ王国(2世紀~)の港としてつくられた街であり、ホイアンを拠点に対外貿易に力を入れたことで国際貿易として発展をとげ、16世紀以降多くの国からの商人が来航しました。チャンパ王国とはインド・カンボジアから渡ってきた民族により建国された政権と言われており、現在でもヒンドゥー教信者であるチャム族はチャンパ王国の子孫である言い伝えられています。また世界遺産のミーソン遺跡はチャンパ王国の聖域として現在もチャム族の崇拝の場になっており、観光客に人気の観光地となっています。
ホイアンの歴史②:ホイアンと日本の関係
次に具体的に日本との関係をみていきましょう。1601年に江南はん氏が徳川家康に書簡を送ったことをキッカケに正式な国交を求めました。これがいわゆる朱印船貿易です。その後、江戸幕府との取引は拡大。その結果、ホイアンに多くの日本人が来航するようになり、日本人街が成形され、最終的には1000人以上の日本人が住んでいたと伝えられています。また一方で同時期に多くの中国人もホイアンに住んでいたと考えられています。現在でもホイアンに根付いた中国人が華僑として住んでいたり、建築には日本建築と中国建築が混在していることから分かります。さらに中国は陶磁器や會舘、お寺を伝え、日本は文化、伝統工芸、建築などを伝えたと考えられています。
1593年には日本との友好関係の象徴として、当時ホイアンにいた日本人たちによって橋が架けられたと言い伝えられています。これが来遠橋(通称、日本橋)です。日本人街と中国人街を結ぶ橋として機能していたと考えられ、来遠橋の屋根の建築には当時ホイアンにいた中国人も協力したと言われています。
江戸幕府による鎖国後は、中国人街が中心となり繁栄が続きました。しかし1771年にグエン朝に反乱したタイソンの乱により街は全焼。したがって現在残る街並みは1800年代以降に建設されたものとなっています。
ホイアンの歴史③:ホイアンの衰退
国際貿易港として栄えた街は、以下の2つ理由を原因に港としての機能を失い、衰退していきました。1つ目は地形の変化によりホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積したことです。トゥボン川は来遠橋の南側に流れており、16世紀末には貿易港として活躍していました。2つ目は船の大型化により川の港であるホイアンに寄航できなくなったことです。その結果、フエのグエン朝に近い海の港ダナンに貿易港が移行することになり、街も次第に衰退していきました。
そして、ホイアンはベトナム戦争の戦火を免れ、開発からも取り残されていました。そのため18世紀に建てられた古い町並みはそのまま残されることになりました。ホイアンの街を歩いているとどこか懐かしい、ノスタルジックな気持ちを感じることも多いと思います。これは先述にもあったようにホイアンには日本人が伝えた文化や建築方法が現在も色濃く残っているからだと考えられます。
ホイアンの歴史④:ホイアンの現在
その後、木造建築の歴史とノウハウを持つ日本に対し、ベトナム政府からの依頼を受け、日本の文化庁やJICA等の協力により、街の保存に関するプロジェクトが行われました。ホイアンには街並み保存条例と呼ばれるものがあり、巨大な看板や付属物の撤去推進し、本当の家並みを楽しめるよう努力しています。日本側のサポート、ベトナム政府研究機関による調査研究とホイアン市民の努力の結果、ホイアンは1999年12月に世界遺産に登録されました。現在、街並みを構成する家屋は450軒の多くを超え、高い技術を必要とする本格的な家屋修復には限りがあります。そのためホイアン市民は市長を先頭にホイアン市民全体で街並みの保存に取り組んでいます。